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Assembly 民会

古代ギリシアにおけるポリスの市民からなる評議会であり、最高決定機関。エクレシア。ポリスによって民会のメンバー、会合の頻度、取り扱う議題に幾らか違いがあった。

ホメロスにおいては王や高貴な者によって人々が集められ評議会が開催されていたが、発言はエリートに制限され、残りの者は承認の声を上げるか沈黙するかであった。

スパルタにおいては、リュクルゴスの制により民会の定期的な開催と最終決定権が保証されていた。トゥキディデスやクセノフォンが記したように長老会はそれほど強力ではなく、アリストテレスは「一般の市民は発言や提案はできず、長老会が分裂しているときに民会が最も強力であった」と記した。

アテナイでは他のポリスと同様に、民会は民主主義に向けて変化していった。当初は、正式に排除されることはないものの、民会において貧しい市民に役割は求められていなかったと思われる。そして民会ではおそらく和平と戦争の問題だけを決定し、執政官を選出していた。ソロンは民会の扱う議題を準備する第二評議会を設け、これが民会の定期的な開催につながったと思われる。また彼は裁判を扱う集会も設けたようだ。そしてクレイステネスが500人評議会を設けることで民会を補佐する体制が整い、エフィアルテスやペリクレスによるアレオパゴス改革を経て、紀元前5世紀後半にはアテナイにおいて全ての重大な決定および多くのより小さな決定についても市民による決定事項となった。

アテナイにおける民会の開催場所はアクロポリス南西にあるプニュクスの丘であったが、紀元前4世紀後半からはディオニュソス劇場がよく使用されるようになった。500人評議会を構成する10の部族それぞれにより年間4回民会が開催され、他必要に応じ臨時で開かれることがあった。重要な決定については6,000名の定足数を必要としたという。
賃金について、紀元前5世紀には評議会や陪審員には支払いがあったものの、民会に参加することへの支払いはなく、紀元前403年民主制の回復より後に支払いが行われるようになった。投票は、定足数の確認が必要な場合は陶器のかけらが使われたが、そうでもなければ挙手であった。

単独のポリスより大きな組織ではこのような手段は実用的ではなく、評議会による決定が主であった。ただし、全市民という意味ではなく議会への参加者という意味では投票も利用されていたようだ。

なお、マケドニアにおいては非常時、主に軍事的な非常時に関して兵士が集められ、王が決定したことを支持するように求められたが、定期的に議会が開かれた証拠はない。