あらかたひとりのブログ

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Art, funerary 芸術、葬儀

青銅器時代(紀元前3000年~紀元前1100年)

早い時代の記念碑的な葬儀に関する建設はクレタ島メッサラ平原でなされ、石を円形に並べた墓が何百と建っていた。末期のミノアの支配者は、クノッソスでもあったように豪華な墓に埋葬されることがあった。ギリシア本土、ミケーネにおいては紀元前1400年ごろからエリートが円形の墓に葬られるようになり、全土で何百もの墓が知られている。

 

初期鉄器時代(紀元前1100年~紀元前700年)

前述のような墓は紀元前1200年ごろから建設されなくなったが、紀元前1000年ごろには再びエリートを思わせる埋葬が見られるようになった。紀元前800年以降、アテナイアルゴスでは大きな花瓶が埋葬されるようになった。

 

アルカイック時代(紀元前700年~紀元前480年)

この時代の主な革新は彫像と墓石であり、コウロイ(直立した裸の男性の若者)やコライ(直立したドレープの女性の若者)といった特徴的なな彫像が作られるようになったのもこの時代であった。一方、地域によっては着席した人物やライオンが彫られることもあり、またテッサリアでは円形の墓が、マケドニアでは大きな古墳が好まれていた。

 

古典時代(紀元前480年~紀元前330年)

アテナイでは法によって、10人で3日かけてできる程度でしか墓は作れなかった。一方、キクラデス諸島やテッサリアでは人物が浮き彫りされた高品質な墓が流行した。紀元前430年ごろになると、ペロポネソス戦争や伝染病のためかアテナイでも墓が作られるようになった。これらはキクラデス諸島の浮き彫りに影響されていたが、次第に様々な派生を生み、紀元前317年に禁止されるまでより大きくより精巧になった。

小アジアでは支配者のための豪華な墓が建てられ、ハルカリナッソスのマウソロス霊廟は一つの到達点である)

 

ヘレニズム時代(紀元前330年~紀元前30年)
アレクサンドリアにあったアレクサンドロス大王の霊廟、セマは消失したが、大王はこの時代に新しい基準を打ち立て、マケドニアでは王や貴族は様々なテーマで描かれたアーチ型の部屋に埋葬されるようになった。紀元前317年には前述のとおりアッティカの技術者がマケドニアやロードス、アレクサンドリアに流出してその様式を伝えたが、後にアレクサンドリアでは死者を地下のネクロポリスに葬るようになった。