あらかたひとりのブログ

のんびりひとり暮らししています。

猫のいる生活 ~三年目

猫を飼い始めてもうじき三年が経過する。 飼いはじめて三年の記録を残しておこう。

 

 

まず走り回る環境としてフローリングがあまり良くなかったせいか、後ろ脚を痛めることがあった。

 

その日、突然ひどく変な声で鳴いたと思ったら、後ろ脚に違和感を感じているような振る舞いをしている。動物病院で診てもらったが骨折などではないようで、数日様子を見ることとなったがこれは気が気ではなかった。

 

徐々に良くはなったが、猫の行動圏にカーペットを敷くことにし、かつサプリも与えるようにした。今は幸いそれまでと変わらず運動しているが、具合の悪い猫を見るのはかなり堪えた。

 

 

それを除けば「ささいな日々の幸せ」をかみしめる年月であった。

 

家に帰れば駆け寄ってきて足元をチェックする。

撫でていると時々突然怒り出してひっかいたり噛みついたりする。

トイレや洗面所から出るとスタンバイしている。

相変わらずソファで爪とぎをしている。

キーボード廻りでごろごろするのもお手の物だ。

深夜に起こされることはないが、朝方顔に前足を押し付けてくる。

出かけるときに駆け寄ってくることはあまりない。

涼しくなれば膝に乗ってくる。

とにかく毛がすごい。

 

 

猫にはとにかく健康でいてもらいたいものだ。

 

Closure 終結

作品やその一部の終わり方。

特定のテキストにより終結が予期されることに加え、古代のいくつかのジャンルでは終結にあたっての規則があった。現代に残る作品の一部は、完結部が残されていなかったりそもそも未完だったりしているため、我々の知識も限られたものであるが、アリストテレスは「詩学」の中で、プロットには結末が必要であり異なるジャンルには異なる結末が必要と記している。

結末に関する古代の最も印象的なコメントは、ヘロドトスにおけるソロンの「人が幸せかどうかはその人が死ぬまでわからない」という助言だろう。

Clocks 時計

古代において時を知る道具は日時計であり、突起の影が平面、球面、円錐面に投影されたもので時間を読み取った。この時間とは、その地点における日照時間の12分の1であった。また春分秋分を示す線が描かれている場合もあった。

紀元前6世紀には古代ギリシア日時計が伝わったとされている。その後、3世紀には数学理論の発展とともに広く利用されるようになった。夜間には、容器から流れる水で時を知る水時計が使われた。紀元前5世紀のアテナイ法廷では単純な水時計が使われていた。3世紀にはクテシビオスがより正確な装置を発明し、これがビザンツイスラム帝国時代の時計の元となった。

 

Climate 気候

古代の気候は現代ととてもよく似ていた。

地中海性気候は涼しく湿った冬と暑く乾いた夏で特徴づけられる。気候の変動は安定した農業を難しくし、時には飢饉を引き起こした。一般的に冬の雨は乾地農法で育つ穀物が成長するには十分であり、気温もオリーブのような霜に弱い植物が耐えられる温かさであった。夏の乾燥については針葉樹や落葉樹の森にはそぐわなかったが常緑樹であれば耐えられたし、気温は亜熱帯の植物も育つほどだった。雨をもたらすのは西風であり、アッティカなどギリシアの東側はより乾燥していた。

古代の気候を調べるには様々な方法が用いられるが、花粉学は植物の地理的分布を通じて気候に関する推論を可能にする。またテオフラストスによる著作から、紀元前300年代の気温が現代と1度以内の差であることが示唆される。今後重要になるのは年輪の研究と目されており、数千年前までさかのぼって気候を推定することができる。

 

Cleruchy クレルキー

古代ギリシアの植民地で、入植者が元の都市の市民権を保持しており完全には独立していなかった種類のもの。

元々は古典期、紀元前6世紀から特にデロス同盟の時代にかけてアテナイに支配された入植地に対して使われていた。ただし紀元前5世紀ごろからアテナイ市民権を失うことはなくなったようで、コロニーとの区別はつかなくなった。おそらく元々の居住者が残っている場合は「クレルキー」であり、そうでない場合は「コロニー」であったのだろう。

紀元前404年のアテナイの敗北により多くのクレルキーは失われた。クレルキーの人数はアンドロスの250人からカルキスの4000人まで様々で、入植者はアテナイ市民の権利を維持した。アテナイには住んでいなかったもののアテナイ市民として兵役につき、戦争税を納め、宗教活動に参加したようだ。ただ、紀元前4世紀にはアテナイから派遣された官吏がクレルキーを監督するようになった。

 

Class struggle 階級闘争

階級闘争、その概念やフレーズはマルクス主義と不可分に結びついている。

マルクスはこの言葉を古代ギリシア・ローマ社会に適用しただけでなく、アリストテレスからこの概念が歴史的分析や説明に有用であることを実証してもらったとしてもいる。しかしながら、マルクスは彼の著作のどこにも広範かつ首尾一貫した「階級」の定義を与えておらず、そのため最も論争のある用語のひとつになっている。

マルクス主義者はマルクスの理論をさまざまに補強してきたが、一方、古代ギリシア・ローマ社会を理解する際にこの言葉を使うことは有用とはみなされなくなった。経済的な階級については客観的事実であるが、歴史分析的な用語としてあるいは政治的スローガンとして「階級」が使われるとなると、それはには自己意識的といった心理的な要素が含まれ、経済階級の一員という意識をもってその行動を決めるということが含意される。どの社会においても「階級」を定義することは難しいが、古代ギリシア・ローマ社会においては独特の難解さがある。もちろん「富める者と貧しい者」という二項対立において連帯があったことは間違いなく、闘争は政府機関の支配にあったので政治的階級闘争と似ている。しかし一方、土地の所有は経済的な階級と関係なく市民にのみ許され、また奴隷については同じ階級としての意識や行動はほとんど見られなかった。

 

Citizenship 市民権

古代ギリシアの市民権は2つの要素からなっていた。

個々の国家は境界を持ち、継続して存在し、決定権があるという概念

国家に住まうものは共同所有者として参加するものであるという概念

 

最初の要素は国家形成に至るプロセスの結果であり、首長が個別に持っていた力が集中化することで認識されるようになった。第二の要素は、叙事詩にもデモス(テリトリーあるいは住居、住民)やラオス(役割や関係性という
文脈における人々)が担っていると描写されているように、共同生活の中で根付いたものだ。

この2つの要素の融合は古代ギリシア世界において広く「政治を共有する」と表現されていた。この表現は暗に全ての市民が公的な責任(決定、戦闘、審判、管理など)と公的な特権(土地、分配、力へのアクセス)を共有することを意味している。政治的圧力と政治理論は「分配は平等であるべきか」「誰が市民であるべきか」という問いを中心に結晶化した。寡頭制に反対する平等への願望は、ホモイオイ(仲間、スパルタ市民の意)、イセゴリア(集会における発言の自由)、イソノミア(支配者と被支配者の公平性)といった用語や、アリストテレスによる市民の定義を形づくる「交代で支配し支配される」という概念によって示された。このような事情から、市民と非市民の境界は明確である必要があった。

ヘレニズム期にはこうした市民の機能が弱まり、市民権は名誉や地位を表すものとなり、売買されるようにすらなったため、このような境界は徐々になくなっていった。